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私てきなメモがき

痔瘻になって

〈2018年9月7日~10月23日〉


お尻に違和感を感じはじめたのは、9月7日、ちょうど会社の同期たちと旅行中のことだった。ただ、その時はまだ若干の排便のし辛さがあるのみで、特に強い痛みを感じることはなかった。しかし、そこから日に日に痛みは増していき、痛みを感じはじめてから5日後には、痛みは出社できないレベルまで達していた。それからやり場のない痛みに眠れない日々が続き、意を決して肛門科のある病院へ行くことにした。


痛みをおぼえはじめてからちょうど1週間後である9月14日、仕事帰りに肛門科へ向かった。初めての肛門科にどこか気恥ずかしさを感じながら、受付を済ました。待合室には、用意されている座席に座りきれないほどの患者たちが自分の順番を待っていた。世の中には自身の肛門に悩みを抱える人がこんなにもいるものなのかと少し驚いた。待合室で、じんじんと痛みを感じる患部とともに1時間ほど過ごしていると、自分の名前が呼ばれるのが聞こえた。診察室に入ると、少しオネエ風の先生が優しく出迎え、看護師さんがズボンを脱ぐことになるからと診察室の鍵を締めた。そして早速、下を脱ぐよう促され、気づけば出会って5分と経たぬ相手に自身のお尻を披露していた。僕はもともと腸が弱く、10代のころから大腸カメラなどそういった類のものに関してはプロフェッショナルといわんばかりに耐性があり、並みの同世代よりは他人にお尻を晒すことに羞恥心はなかった。一方、相手の先生もプロフェッショナル、もちろん他人のお尻を見ることに抵抗はない。そのため、ぐいぐいと僕のお尻に指を突っ込み、躊躇なく触診をはじめた。その患部をまさぐる勢いは凄まじく、患部に激痛が走った。その痛みに悶え、全身が震え、思わず「痛いです!」と声を上げると、先生は「あーやっぱり」とひどく冷静であった。医者とはなんて恐ろしい生き物なんだろうか。


命からがら診察を終え、その結果は、“痔瘻”とのことだった。痔瘻とは、肛門の内側にある肛門腺という管に細菌が入り膿が溜まってしまうというもの。自然に完治することはなく、必ず手術が必要になるとのことらしい。手術には、大きく2通りのパターンがあり、“日帰り手術”と“入院の伴う手術”があるそう。日帰り手術は手術をしたその日のうちに帰ることができるというメリットがある反面、局部麻酔のみのため激痛が伴うとのこと。一方、入院に伴う手術は、おおよそ10日ほどの入院が必要だが、痛みは軽減されるとのこと。日帰り手術について、半ば脅しのような説明を受け、それでも日帰り手術を選ぶ人はよっぽどマゾか社畜なのだろう。もちろん、大の臆病である僕は入院を選ぶことにしたのだった。ひとまずその日は、化膿止めの作用のある抗生剤を処方してもらい、病院を後にした。


抗生剤の服用をはじめるものの、なかなか症状は良くならず、外に出ることすら億劫になるほどの痛みが続いた。9月16日の深夜には、激しい痛みに襲われ、眠りにつくことができず、終いには吐き気と寒気が伴うほどになっていた。しかしながら、夜が明けると、昨夜の苦痛は嘘だったかのようにひいていた。それからというもの、やっと抗生剤が効いてきたのか、かなり快方へ向かっていたのがわかった。なんなら、もう万事回復、手術の必要性に疑問を持つほどだった。とはいえ、手術は必要だと説明を受けているため、10月16日に手術の予約を取った。どうも手術の日程がかなり混み合っているらしく、結果として手術を受けるのは発症から約1ヶ月後ということになった。その期間、症状が悪化しないのをただただ願うばかりであった。

 

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手術までの日常はたいした痛みもなかったため、思いのほか早く過ぎ去っていった。10月13日、術前検査と称して、血圧や心電図などの検査をあらかた済ませ、いよいよ当日を待つばかりとなった。


10月16日、迎える手術当日。病院の受付で入院の手続きを済ませると、看護師さんにこれからしばらく生活することとなる病室へと案内された。そこで荷ほどきを行なっていると、先ほどの看護師さんに呼ばれ、別室にてこれから行う手術や今後の入院生活に関する説明を受けた。あらかた説明を理解すると、今度は処置室に案内された。ここでは、手術に臨むにあたっての準備を行う。ずばり、肛門周りの除毛である。ほとんど同い年であろう女性の看護師さんに自分のお尻を突き出すと、バリカンで丁寧にお尻の毛を剃られた。なんという恥ずかしさだろうか。生憎、これを性的興奮に昇華できるほどの上級者ではない。こんなことになるならば、事前に自分で処理しておくべきだった、と後悔しているうちに除毛は完了し、そこからあれよあれよと従ううちに手術着に着替えさせられ、とうとう手術室に通されたのであった。


初めての手術室、まさにテレビドラマで見たことのあるあの光景が目の前に広がっていた、のであろう。裸眼のためよく見えなかった。そして、なぜか手術室では、サザンオールスターズ、それも原由子がメインボーカルを務める楽曲ばかりが流れていた。手術中クラシックを流す先生もいるとテレビで見たことあるが、J-POPというパターンもあるのか。

手術室で定位置に着くと、ベッドに右肩を下にして寝転んだ。そして、指示に従うまま、身体を丸く曲げ、腰を突き出す姿勢をとった。腰椎麻酔ということで、背中に麻酔の注射を行うのだ。これがなかなか辛いものだった。痛みは通常の点滴ほどなのだろうが、背中に刺されるという初めての経験に、つい嫌な想像が先走り、恐怖から軽いパニック状態に陥ってしまった。今か今かと身体を強張らせ構えていると、いよいよ針が背中に刺さるのがわかった。グググと痛みとともに得体の知れない不快さが身体に注入されていった。怯える自分に助手の看護師さんが手を差し伸べ、最初は軽く触れる程度だったのが、麻酔が打ち終わるころにはぎゅっと握り返している自分がいた。

麻酔はみるみる効いていき、気づけば下半身の感覚がなくなっていた。手術しやすいようお尻の両頬が外側からガムテープで固定され、除毛されたきれいな肛門があらわとなった。ただその作業に移っているころにはとうに下半身の感覚はないため、ほとんど何をされているのかわからない状態であった。

肛門を遮るものが何もないまましばらく経つと、別の患者の手術を終えた先生が現れた。そして、早速僕の手術に取り組んだ。手術自体は麻酔の苦労が嘘のように、あっけなく終わった。実に4分のできごとであった。感覚がないためもちろん痛みもない、なんならいつ始まっていつ終わったのかも曖昧なくらいだった。発症してから日が浅かったため、手術も大がかりなものにならず、傷口も浅く済んだそうだと聞き、ひとまず安堵した。


手術後、麻酔が完全に切れるまで数時間を要し、麻酔が切れれば当然手術痕の痛みも感じるようになる。その痛みへのカウントダウンを、下半身が一切動かないためベッドに横たわり静かに過ごした。

予告されていたとおり、その日の夕方には麻酔が切れていた。しかしながら覚悟していたほどの痛みはなく、拍子抜けを食らうとともに安堵した。しかし、その日の深夜に悲劇は起きた。麻酔で身動きが取れないため日中ずっと眠っていた影響で、その日の夜はなかなか寝付けなかった。何をするでもなくぼーっと過ごしていると、手術後初めて便意をもよおした。そして、意を決してトイレへ向かい、痛みとともに用を足した。その瞬間、急な吐き気に襲われ、呼吸が荒くなり、便器に座っていることすら困難な状態になってしまった。急いでトイレに備え付けの呼び出しボタンを押すと、すぐに夜勤の看護師さんが駆けつけてくれた。しかしながら、その時にはかなり意識が朦朧としており、駆けつけてくれた看護師さんに何をどう伝え、何を要求すればわからなくなっていた。ひとまず声を振り絞りお水を要求すると、耐え切れずトイレの地べたに横になった。その後、そのままの姿勢でしばらく身体を休めた。そして、看護師さんの助けを借り車椅子で病室に戻り、なんとか無事に眠りにつくことができた。この吐き気、倦怠感はどうも腰椎麻酔の副作用らしく、患部の痛みより苦しいものであった。


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その後の入院生活はというと退屈を極めた。毎朝、医師による手術痕の経過確認が行われ、そのたびにさっと軟膏を塗られた。処置らしい処置はそれのみで、あとはただただベッドの上で安静に過ごした。食事もシャワーも可能で、点滴などもないため、不自由を感じる機会は少なかった。強いて言うならば、患部に当てるガーゼ交換が厄介であった。患部からは赤い血ではないものの、薄茶色の液体(滲出液というらしい)が出続けるため、2、3時間おきに、もしくは用をたすたびにガーゼを交換しなければならなかった。また、毎食後には、肛門の腫れを抑える薬と痛み止め、胃薬を飲む必要があった。それに加え、痛みがひどい場合には、さらに別の痛み止めを、また便が固いと痛みが増すため便が固い場合には、下剤を飲むよう処方されていた。しかし、後者の2つの薬はほとんど服用することもなく、手術痕の治りは順調であった。


日に日に痛みととともに滲出液の量も減り、手術のちょうど1週間後である10月23日に退院することが決定した。滲出液は術後だいたい1ヶ月は続くそうで、これからもしばらくは通院と滲出液の処理は必要となるが、これでひとまず痔瘻との戦いにひと段落がついた。

 

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今回学んだことは、とりあえず病院に行くことが重要であるということ。今回、痛み出してから病院に行くまで1週間空いてしまい、その間痛みに苦しんだ。そして、病院で処方された薬を飲んでみると噓みたいに痛くなくなったことを思うと、早く行くべきだったと強く思う。また、僕と同じ日に同じく痔瘻の手術を受けたおじさんは、発症してから20年ほど放置していたそうで、そのため手術も大がかりで、その後の手術痕の痛みも痛み止めがないと眠られないほど酷かったそうだ。なんでも、早めにが吉なのだ。

潰瘍性大腸炎が悪化して

〈2014年12月11日〜2015年1月15日〉

2014年12月11日、大腸カメラによる検査の結果、潰瘍性大腸炎が悪化しているということで、即日入院が決定した。もともと12月のはじめあたりから腹痛や血便がひどく、検査を受ける前日周辺はトイレに付きっきりという状態だった。それでも8日と9日は腹痛を我慢し、バイトに行ったのは今思えば我ながらすごい根性だ。

 

そもそも潰瘍性大腸炎が発症したのは、今から2年前大学1年生の時だった。しかしながら、当時はたいして自らの病に関心がなく、まさか2年後入院を余儀なくされるだなんて考えもしなかった。実際、発症して数ヶ月も経つと、潰瘍性大腸炎を抑える薬もかなりサボるようになっていた。今となっては後悔しかない。

 

入院生活は想像を絶するほどつらく、何度も自分の運命を嘆いた。絶食を余儀なくされるのはつらかったが、やはりなによりつらいのが腹痛。入院当初は、四六時中その痛みに悩まされた。そして、入院して数日後には痛み止めを使わなければ、泣き悶えるほどの激痛に変わり、ただ寝転ぶことさえも困難なほどであった。その時、もしかしたら腸に穴が空いているかもしれないということで、遅い時間にレントゲンを撮ったりもしたが、幸運なことに、穴は空いていなかった。ちょうどそんな時に、ステロイドのみの治療をやめ、Lcapという治療も行うことが決定した。このLcapという治療法は透析のようなもので、片腕から血液を抜き出し、一度それを機械に通すことで正常な血液に変え、もう片方の腕から体内に戻すというもの。これを行う際に繋ぐチューブの注射がとても太く、痛み止めのシールを貼っていても激痛。初めての時は、つい涙を流してしまったほどだ。治療は1時間ほどただじっとテレビを観ているだけなのだが、これが落ち着かずなかなかに退屈であった。

 

それから3回ほどLcapを行うもののなかなか改善されず、22日の深夜あたりから謎の発熱と頭痛が続いた。今思えば、この時期が長い入院生活のなかで、1番辛かった。発熱、全身の震え、頭痛、ただ呼吸をすることさえ困難であった。あまりにも容態が悪かったため、ステロイドの副作用である免疫の低下からくる何か別の病気が原因ではないかということになった。その中で有力であったのが、副鼻腔炎。しかし、当時入院していた病院に耳鼻科はなく、耳鼻科のある大学病院に転院することが決まった。ちょうどそれがクリスマスイブの日であったこともあり、自分の不遇さにひどく絶望した。ちなみに、ここで約2週間ぶりにマスク越しであれ外の空気を吸った。転院してもなお謎の発熱は止まらず、多くの時間は意識が朦朧としていた。そしていざ、耳鼻科で検査をしてみるとこの発熱と副鼻腔炎は無関係であるという結論に至った。

 

翌日、クリスマスの日に新しい主治医の方に、両親とともに面談室に呼ばれた。これまでの治療の効きが悪いため、新しい治療法の提案であった。それが、レミケードという薬の投与であった。とにかく容態がひどかった自分としては、もう藁にもすがる気持ちであったが、このレミケードという薬にはたくさんの副作用があり、僕の恐怖を煽った。なにより怖かったのが、もしレミケードさえも効かなかったら、大腸を全摘出しないといけなくなるという事実であった。もし大腸がなくなれば、当然普通の生活は送れない。食事にもひどく制限がつく。とにかく恐怖であった。そして、最後の希望であるレミケードに僕はすべてをかけることを決意した。もしダメだったら…と何度も不安になったが、とにかくクヨクヨとネガティブになっていても意味がないととにかく希望を持つことをやめなかった。レミケードは、早速次の日に投与された。これ自体はただの点滴とたいして変わらず、けっして苦痛ではなかった。効果は即日あらわれ、投薬後発熱することは一度もなかった。僕はとにかく安堵した。

 

それからというもの、悩み事は体調のことよりも、入院生活の退屈さや絶食からくる空腹感に変わっていった。容態がひどい時は精神的にもかなり苦痛が多く、この心境の変化は僕が健康に近づいていっている証拠なのだと思う。レミケードを投与した次の日である27日、プリンやゼリーといった食事が解禁された。そして、その翌々日には重湯が解禁され、少しずつではあれ食事制限が解けていった。入院生活にも慣れ、最近は退院のことや食事のことばかりを考える。しかし、ここで気を抜くことなく治療に専念しなくてはいけないと強く心に思った。

 

1回目のレミケードを行ってからの生活は、体調よりも精神との戦いだった。単純にいえば、食欲との戦いの毎日だ。ゼリーとプリンが解禁されたため、これからトントン拍子であらゆる食事が解禁されていくかと思いきや、それからなかなか次の段階にはいけず、重湯と呼ばれる流動食にありつくまで約3日を要した。その間、あらゆる種類のプリンを食べて過ごした。それから、重湯の期間も一週間近く続き、次に出てきたのは少し固形の混じった三分粥。ここで噛むおかずが出てきたのだが、久しぶりの噛んで食べる食事に涙が止まらなかった。食べることの喜びを改めて噛み締めた。しかし、人間の欲望はとどまることを知らず、次の日にはもっと美味しいものが食べたいと思うようになっていた。そして、しばらくして、三分よりも水気の少ない五分粥が解禁。この時には、パンなどは解禁されていたため、1日に何回もコンビニに通っては、買い食いするのが日課になっていた。そして、それからしばらくして、軟飯という、お母さんが水の量を間違えて炊いちゃったレベルの柔らかいご飯が解禁。これくらいの時期になると、食欲は止まることを知らず、買い食いの量も増えていた。ステロイドを服用しているため、食欲を増すのは当然らしいが、それでも異常だというほど買い食いをしていた。そして、ゼリー解禁から二週間ほどの日数を要して、少しずつ通常の食事に近づいていき、入院の決まる1月13日の朝には、普通のご飯が出た。

 

レミケードを行ってから体調が安定していたとはいえ、それ以外の治療は継続された。G-CAPは週2回ほどのペースで行われ、相変わらず刺すその針は痛かった。第8回からは、血管の出が悪く、何度も刺し直しされることもあった。しかし、そのG-CAPの辛さとは比べものにならないほど辛かったのが、レミケード後に始まったペンタサ注腸という治療だ。これ腸に直接薬が効くようにするため、肛門にチューブを挿し薬を注入するというものだ。これは本来、患者自らが行うものなのだが、最初は看護師の助けを借りてやることになっている。ウォシュレットすら怖くて使えない自分にとっては、この自らの肛門にチューブを挿すという行為がどうも受け入れられず、その説明を受けている時から涙が止まらなかった。主治医の先生が、無理にやる必要はないと言ってくれたものの、早く退院したい自分としては簡単に断ることもできなかった。ペンタサ初日、なんとか覚悟を決めて、看護師の方とともに行ったのだが、注入する薬の量も膨大なため、想像していたよりも長い時間チューブを挿し続けなければならず、気持ち悪い感覚にただひたすらに耐え抜いた。この治療、ただ注入したら終わりではなく、注入後、体をゴロゴロさせ、薬が腸全体に行き渡らせるようにしなければならない。そして、この薬が厄介なのが、注入後はしばらくその薬を体内に保持させておかないといけないのだ。しかし、注入後、しばらくすると急激に催してくる。ここでトイレに駆け込んでしまえば、せっかく注入したのが全部体外に出され台無しなのだ。初日は2時間ほどしか耐えられず、効果があったのかいささか疑問だ。そして、次の日、どうしても自分一人で行う勇気が出ず、また看護師さんに手伝ってもらい、ペンタサ注腸を行った。2回目とはいえ、まったく慣れず、相変わらずの気持ち悪さであった。そして、前日同様、たいして保持することもできず、すぐに排泄。必死の思いで注入したのにこれでは意味がないという気持ちでいっぱいで、なにより割りに合ってないということで、泣く泣くこの日を最後にペンタサ注腸は断念した。

 

ペンタサ注腸は諦めたものの、レミケードやG-CAPの甲斐あって、病状は徐々に回復し、無事1月15日に退院することが決定した。