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私てきなメモがき

潰瘍性大腸炎が悪化して

〈2014年12月11日〜2015年1月15日〉

2014年12月11日、大腸カメラによる検査の結果、潰瘍性大腸炎が悪化しているということで、即日入院が決定した。もともと12月のはじめあたりから腹痛や血便がひどく、検査を受ける前日周辺はトイレに付きっきりという状態だった。それでも8日と9日は腹痛を我慢し、バイトに行ったのは今思えば我ながらすごい根性だ。

 

そもそも潰瘍性大腸炎が発症したのは、今から2年前大学1年生の時だった。しかしながら、当時はたいして自らの病に関心がなく、まさか2年後入院を余儀なくされるだなんて考えもしなかった。実際、発症して数ヶ月も経つと、潰瘍性大腸炎を抑える薬もかなりサボるようになっていた。今となっては後悔しかない。

 

入院生活は想像を絶するほどつらく、何度も自分の運命を嘆いた。絶食を余儀なくされるのはつらかったが、やはりなによりつらいのが腹痛。入院当初は、四六時中その痛みに悩まされた。そして、入院して数日後には痛み止めを使わなければ、泣き悶えるほどの激痛に変わり、ただ寝転ぶことさえも困難なほどであった。その時、もしかしたら腸に穴が空いているかもしれないということで、遅い時間にレントゲンを撮ったりもしたが、幸運なことに、穴は空いていなかった。ちょうどそんな時に、ステロイドのみの治療をやめ、Lcapという治療も行うことが決定した。このLcapという治療法は透析のようなもので、片腕から血液を抜き出し、一度それを機械に通すことで正常な血液に変え、もう片方の腕から体内に戻すというもの。これを行う際に繋ぐチューブの注射がとても太く、痛み止めのシールを貼っていても激痛。初めての時は、つい涙を流してしまったほどだ。治療は1時間ほどただじっとテレビを観ているだけなのだが、これが落ち着かずなかなかに退屈であった。

 

それから3回ほどLcapを行うもののなかなか改善されず、22日の深夜あたりから謎の発熱と頭痛が続いた。今思えば、この時期が長い入院生活のなかで、1番辛かった。発熱、全身の震え、頭痛、ただ呼吸をすることさえ困難であった。あまりにも容態が悪かったため、ステロイドの副作用である免疫の低下からくる何か別の病気が原因ではないかということになった。その中で有力であったのが、副鼻腔炎。しかし、当時入院していた病院に耳鼻科はなく、耳鼻科のある大学病院に転院することが決まった。ちょうどそれがクリスマスイブの日であったこともあり、自分の不遇さにひどく絶望した。ちなみに、ここで約2週間ぶりにマスク越しであれ外の空気を吸った。転院してもなお謎の発熱は止まらず、多くの時間は意識が朦朧としていた。そしていざ、耳鼻科で検査をしてみるとこの発熱と副鼻腔炎は無関係であるという結論に至った。

 

翌日、クリスマスの日に新しい主治医の方に、両親とともに面談室に呼ばれた。これまでの治療の効きが悪いため、新しい治療法の提案であった。それが、レミケードという薬の投与であった。とにかく容態がひどかった自分としては、もう藁にもすがる気持ちであったが、このレミケードという薬にはたくさんの副作用があり、僕の恐怖を煽った。なにより怖かったのが、もしレミケードさえも効かなかったら、大腸を全摘出しないといけなくなるという事実であった。もし大腸がなくなれば、当然普通の生活は送れない。食事にもひどく制限がつく。とにかく恐怖であった。そして、最後の希望であるレミケードに僕はすべてをかけることを決意した。もしダメだったら…と何度も不安になったが、とにかくクヨクヨとネガティブになっていても意味がないととにかく希望を持つことをやめなかった。レミケードは、早速次の日に投与された。これ自体はただの点滴とたいして変わらず、けっして苦痛ではなかった。効果は即日あらわれ、投薬後発熱することは一度もなかった。僕はとにかく安堵した。

 

それからというもの、悩み事は体調のことよりも、入院生活の退屈さや絶食からくる空腹感に変わっていった。容態がひどい時は精神的にもかなり苦痛が多く、この心境の変化は僕が健康に近づいていっている証拠なのだと思う。レミケードを投与した次の日である27日、プリンやゼリーといった食事が解禁された。そして、その翌々日には重湯が解禁され、少しずつではあれ食事制限が解けていった。入院生活にも慣れ、最近は退院のことや食事のことばかりを考える。しかし、ここで気を抜くことなく治療に専念しなくてはいけないと強く心に思った。

 

1回目のレミケードを行ってからの生活は、体調よりも精神との戦いだった。単純にいえば、食欲との戦いの毎日だ。ゼリーとプリンが解禁されたため、これからトントン拍子であらゆる食事が解禁されていくかと思いきや、それからなかなか次の段階にはいけず、重湯と呼ばれる流動食にありつくまで約3日を要した。その間、あらゆる種類のプリンを食べて過ごした。それから、重湯の期間も一週間近く続き、次に出てきたのは少し固形の混じった三分粥。ここで噛むおかずが出てきたのだが、久しぶりの噛んで食べる食事に涙が止まらなかった。食べることの喜びを改めて噛み締めた。しかし、人間の欲望はとどまることを知らず、次の日にはもっと美味しいものが食べたいと思うようになっていた。そして、しばらくして、三分よりも水気の少ない五分粥が解禁。この時には、パンなどは解禁されていたため、1日に何回もコンビニに通っては、買い食いするのが日課になっていた。そして、それからしばらくして、軟飯という、お母さんが水の量を間違えて炊いちゃったレベルの柔らかいご飯が解禁。これくらいの時期になると、食欲は止まることを知らず、買い食いの量も増えていた。ステロイドを服用しているため、食欲を増すのは当然らしいが、それでも異常だというほど買い食いをしていた。そして、ゼリー解禁から二週間ほどの日数を要して、少しずつ通常の食事に近づいていき、入院の決まる1月13日の朝には、普通のご飯が出た。

 

レミケードを行ってから体調が安定していたとはいえ、それ以外の治療は継続された。G-CAPは週2回ほどのペースで行われ、相変わらず刺すその針は痛かった。第8回からは、血管の出が悪く、何度も刺し直しされることもあった。しかし、そのG-CAPの辛さとは比べものにならないほど辛かったのが、レミケード後に始まったペンタサ注腸という治療だ。これ腸に直接薬が効くようにするため、肛門にチューブを挿し薬を注入するというものだ。これは本来、患者自らが行うものなのだが、最初は看護師の助けを借りてやることになっている。ウォシュレットすら怖くて使えない自分にとっては、この自らの肛門にチューブを挿すという行為がどうも受け入れられず、その説明を受けている時から涙が止まらなかった。主治医の先生が、無理にやる必要はないと言ってくれたものの、早く退院したい自分としては簡単に断ることもできなかった。ペンタサ初日、なんとか覚悟を決めて、看護師の方とともに行ったのだが、注入する薬の量も膨大なため、想像していたよりも長い時間チューブを挿し続けなければならず、気持ち悪い感覚にただひたすらに耐え抜いた。この治療、ただ注入したら終わりではなく、注入後、体をゴロゴロさせ、薬が腸全体に行き渡らせるようにしなければならない。そして、この薬が厄介なのが、注入後はしばらくその薬を体内に保持させておかないといけないのだ。しかし、注入後、しばらくすると急激に催してくる。ここでトイレに駆け込んでしまえば、せっかく注入したのが全部体外に出され台無しなのだ。初日は2時間ほどしか耐えられず、効果があったのかいささか疑問だ。そして、次の日、どうしても自分一人で行う勇気が出ず、また看護師さんに手伝ってもらい、ペンタサ注腸を行った。2回目とはいえ、まったく慣れず、相変わらずの気持ち悪さであった。そして、前日同様、たいして保持することもできず、すぐに排泄。必死の思いで注入したのにこれでは意味がないという気持ちでいっぱいで、なにより割りに合ってないということで、泣く泣くこの日を最後にペンタサ注腸は断念した。

 

ペンタサ注腸は諦めたものの、レミケードやG-CAPの甲斐あって、病状は徐々に回復し、無事1月15日に退院することが決定した。